第八章 近世きんせい元禄文化げんろくぶんか

第一節 近世中期きんせいちゅうき文化ぶんか

近世中期きんせいちゅうき文化ぶんかは、元禄文化げんろくぶんかという。十七世紀じゅうしちせいき後半こうはんから十八世紀じゅうはっせいき初期しょきにかけて、京都きょうと大坂おおさかなどの上方かみがた中心ちゅうしんに、町人ちょうにん文化ぶんかまれた。近世きんせいのこの時期じきになると、幕政ばくせい安定あんていして経済けいざい目覚めざしく発展はってんし、町人階級ちょうにんかいきゅう経済的けいざいてき実力じつりょくつようになり、町人ちょうにんなかから多彩たさい文化ぶんかまれた。古代こだい中世ちゅうせい日本文化にほんぶんかは、貴族きぞくなどの上層階級じょうそうかいきゅうかぎられたものだったが、近世きんせい文化ぶんか武士ぶし町人ちょうにんにまでひろ普及ふきゅうした。

江戸時代えどじだいに、儒学じゅがくとく朱子学しゅしがくは、学問がくもん本流ほんりゅうだった。1690(元禄げんろく3)ねんに、幕府ばくふ江戸えど湯島ゆしま聖堂せいどうつくり、儒学じゅがく尊重そんちょうする方針ほうしんしめした。このころ、武士ぶし子弟していのために各藩かくはん藩校はんこうつくられはじめ、そこでは『論語ろんご』などの四書ししょ勉強べんきょうされた。民間みんかんでは、寺子屋てらこやという初等教育しょとうきょういく学校がっこうひろまり、み、き、そろばんなどがまなばれた。また、私塾しじゅくという高等教育こうとうきょういく発達はったつした。そのために、庶民しょみん識字率しきじりつたかくなり、文化水準ぶんかすいじゅんもしたがったとえる。

日本にほんでは、中世ちゅうせいまでは仏教ぶっきょう世界観せかいかんとく浄土思想じょうどしそう影響えいきょうで、このを「憂き世うきよ」ととらえていた。ところが、近世きんせいになると、身分的みぶんてき最下位さいかい位置いちづけられた商人しょうにんは、経済上けいざいじょう実権じっけんにぎるようになって、現世げんせ生活せいかつたのしんでいたことから、「憂き世うきよ」を「浮き世うきよ」としてとらえるようになる。そこで現実げんじつそのものをえがこうとする文学ぶんがく芸術げいじゅつ町人ちょうにんなかからまれ、浮世草子うきよぞうし浮世絵うきよえなどの「浮世うきよ」という表現ひょうげんがよくてくる。そして町人文化ちょうにんぶんかなかから、小説しょうせつ俳諧はいかい歌舞伎かぶき浄瑠璃じょうるりなど、人々ひとびとこころあかるく表現ひょうげんするものがまれていった。

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学習ポイント
  1. 近世中期きんせいちゅうき元禄文化げんろくぶんか
  2. 元禄時代げんろくじだい文芸ぶんげい
  3. 近世きんせい芸能げいのう
  4. 元禄時代げんろくじだい芸術げいじゅつ

第二節 元禄時代げんろくじだい文芸ぶんげい

元禄文化げんろくぶんかながれを概観がいかんすると、井原西鶴いはらさいかく近松門左衛門ちかまつもんざえもん松尾芭蕉まつおばしょう密接みっせつ関連かんれんっている。元禄時代げんろくじだい庶民文芸しょみんぶんげいは、この三人さんにん代表だいひょうされるともかんがえられる。井原西鶴いはらさいかく浮世草子うきよぞうし松尾芭蕉まつおばしょう俳諧はいかい近松門左衛門ちかまつもんざえもん人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり歌舞伎かぶき作品さくひんは、たんなる文学作品ぶんがくさくひんではなく、内容的ないようてき芸術作品げいじゅつさくひんになったともえる。つまり元禄時代げんろくじだい文学ぶんがく文化ぶんかは、西鶴さいかく近松ちかまつ芭蕉ばしょうによる上方かみがた町人文芸ちょうにんぶんげい中心ちゅうしんだったのである。

井原西鶴いはらさいかく

井原西鶴いはらさいかく(1642-93)は大坂おおさか町人ちょうにんで、はじめは貞門俳諧ていもんはいかい談林俳諧だんりんはいかいまなび、数多かずおおくの俳諧はいかいいた。やがて日常生活にちじょうせいかつ題材だいざいり、現実げんじつ世相せそう庶民しょみん背景はいけいにした、浮世草子うきよぞうしはじめた。西鶴さいかく町人ちょうにん生活せいかつ題材だいざいとする『日本永代蔵にほんえいたいぐら』、『世間胸算用せけんむなざんよう』などの町人物ちょうにんものいた。これらの作品さくひんにおいて、西鶴さいかく活気かっきあふれる町人ちょうにん経済生活けいざいせいかつえがき、町人ちょうにん勤勉きんべんという倫理りんり力強ちからづよえがしている。西鶴さいかく町人物ちょうにんもの近世きんせい庶民しょみん世界せかい見事みごと反映はんえいしていたとえるだろう。

井原西鶴いはらさいかくはまた『好色一代男こうしょくいちだいおとこ』、『好色一代女こうしょくいちだいおんな』、『好色五人女こうしょくごにんおんな』などの好色物こうしょくものき、遊里ゆうり舞台ぶたいにして生活せいかつたのしむ町人ちょうにん姿すがたえがいた。「好色こうしょく」とは色事いろごとこのむことだが、このような表現ひょうげん近世初期きんせいしょき仮名草子かなぞうしにもられていて、とく西鶴さいかく浮世草子うきよぞうしだけにられる特色とくしょくではない。しかし、西鶴さいかくはその好色物こうしょくものにおいて、当時とうじ遊里ゆうりでの享楽生活きょうらくせいかつ具体的ぐたいてき描写びょうしゃし、人間にんげん愛欲あいよく金銭欲きんせんよくなどをするどえがき、あたらしい文学ぶんがく世界せかい創造そうぞうした。「好色一代男こうしょくいちだいおとこ」のような文芸作品ぶんげいさくひんは、武士ぶし庶民しょみん絵本えほんにも仕立したてられていった。

松尾芭蕉まつおばしょう

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松尾芭蕉まつおばしょう(1644-94)は伊賀いが出身しゅっしんで、はじめは談林派だんりんは俳諧師はいかいしだった。談林俳諧だんりんはいかいは『荘子そうし』にもとづいて自由奇抜じゆうきばつ表現ひょうげんをねらうが、芭蕉ばしょう俳諧はいかい本質ほんしつ滑稽性こっけいせい通俗性つうぞくせいわすれることなく、禅味ぜんみくわえたわび・さびの境地きょうちもとめていった。そこで「わび」、「さび」、「しおり」、「かるみ」でしめされる幽玄閑寂ゆうげんかんじゃく俳諧はいかい風調ふうちょう確立かくりつし、あたらしい作風さくふうした。その俳風はいふうを「正風しょうふう」とも「蕉風しょうふう」ともいう。

芭蕉ばしょう俳諧はいかい人生じんせい真実しんじつうたげるものとするため、その解決かいけつたびなかもとめた。その代表作だいひょうさくに、『おく細道ほそみち』、『ざらし紀行きこう』、『おい小文こぶみ』などの紀行文きこうぶんがある。これらの作品さくひんには、たび契機けいきとして道中どうちゅう情景じょうけいえがくされている。また、自然しぜん人生じんせいい、自然しぜん人間にんげんするどつめる感想かんそうかれている。室町時代むろまちじだい末期まっきあらわわれた気軽きがるさやおかしみをしゅとする俳諧はいかいは、松尾芭蕉まつおばしょうによって芸術げいじゅつにまでたかめられたともえよう。

近松門左衛門ちかまつもんざえもん

武士ぶし出身しゅっしんである近松門左衛門ちかまつもんざえもん(1653-1724)は、近世きんせい脚本家きゃくほんかとして活躍かつやくした。近松ちかまつ歴史れきし現実げんじつ社会しゃかい題材だいざいもとめ、おおくの時代物じだいもの世話物せわものいた。時代物じだいもの古典こてん伝説でんせつなどにもとづいて、武士ぶし世界せかいえがいた作品さくひんだが、世話物せわもの当時とうじ世相せそう取材しゅざいして、町人ちょうにん生活せいかつえがいた作品さくひんである。近松ちかまつはこれらの作品さくひんにおいて、武士道ぶしどうにおける主従しゅじゅう忠義ちゅうぎ男女だんじょ愛情あいじょう義理ぎり人情にんじょういたばさみになや人々ひとびと姿すがたえがいた。こうした多彩たさい人間像にんげんぞうえがいた作品さくひんは、人々ひとびと感動かんどうさせ、民衆みんしゅう共感きょうかんんだ。近世きんせい武士道思想ぶしどうしそう庶民しょみん思想しそうは、近松ちかまつ作品さくひん十分じゅうぶん反映はんえいされているともえよう。

1703(元禄げんろく16)ねん近松ちかまつ大坂おおさかちかくの曾根崎そねざききた心中しんじゅう題材だいざいとして、『曾根崎心中そねざきしんじゅう』をいた。この作品さくひんにおいて、遊女ゆうじょはつ町人ちょうにん徳兵衛とくべえ心中しんじゅうかたられている。『曾根崎心中そねざきしんじゅう』が人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりとしておくられて以来いらい心中しんじゅう流行りゅうこうしはじめた。それ以後いご心中事件しんじゅうじけんをテーマにした心中物しんじゅうものは、歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりでは重要じゅうよう主題しゅだいとされている。元禄時代げんろくじだいに、歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり人々ひとびとよろこばれて、とても人気にんき

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があった。両者りょうしゃ人気にんきんだのは、近松門左衛門ちかまつもんざえもんがその脚本きゃくほんおおくの名作めいさくいたからだとわなければならない。

武士道ぶしどう

武士道ぶしどうは、武士社会ぶししゃかい倫理的りんりてき規範きはんで、もともと武士ぶし戦場せんじょうにある心構こころがまえだった。ところが、近世きんせいはいると、山鹿素行やまがそこう(1622-85)が儒学じゅがくによって武士道ぶしどう理念的りねんてき体系化たいけいかして、武士道ぶしどうきわめて形式的けいしきてき儀礼的ぎれいてき、かつ形而上的けいじじょうてき観念的かんねんてき倫理りんりになっていった。そこで武士道ぶしどう戦場せんじょう世界せかいからはなれて、社会秩序しゃかいちつじょ維持いじするために、精神修養せいしんしゅうよう規範きはんとなった。山鹿素行やまがそこう武士道思想ぶしどうしそうを「士道しどう」という。

こうした儒教的じゅきょうてき武士道ぶしどう思想しそうたいして、覚悟かくご主君しゅくんへの献身けんしん強調きょうちょうしたのは、山本常朝やまもとじょうちょう(1659-1721)の口述こうじゅつしょわれる『葉隠はがくれ』である。『葉隠はがくれ』は、「武士道ぶしどううは、こと見付みつけたり」とく。このほんにおいて、覚悟かくごした奉公精神ほうこうせいしんすすめられ、ぬこと自体じたい武士ぶしかた根本こんぽんとしてとらえられている。そこで武士道ぶしどうすなわぬことを意味いみするようになった。

近代以後きんだいいご武士ぶしという身分みぶんはなくなったが、武士道ぶしどう国民道徳こくみんどうとくとしての役割やくわりえんじることになった。そして現代げんだいでは、武士道ぶしどう思想しそうすこわって、武士道ぶしどう日本文化にほんぶんか日本人にほんじん伝統的道徳観でんとうてきどうとくかんとして位置付いちづけられている。

心中しんじゅう

心中しんじゅうとは、結婚けっこんできない男女だんじょ一緒いっしょぬことである。江戸時代えどじだい遊里ゆうりでは、遊女ゆうじょきゃくたいしてみずかあい真実しんじつしめすために、かみったりゆびつめをはがしておくったりした。これを「心中立しんじゅうだて」という。しかしそののち時勢じせいわるくなり、もはやどんな手段しゅだんでも自分じぶんこころあらわすことができなくなっていった。そこで本来ほんらい真実しんじつあいしめしていた心中しんじゅうは、次第しだいたがいの生命せいめいをかけるまでにいたって、ついにということを意味いみするようになった。

近代きんだいになって心中しんじゅう恋愛れんあいもとづく情死じょうしのみならず、貧苦ひんく病気びょうきなどのために、親子おやこ一緒いっしょぬ、という親子心中おやこしんじゅうのような複数自殺ふくすうじさつにまで拡大かくだいされて、今日きょうおよんでいる。

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第三節 近世きんせい芸能げいのう

近世きんせい代表的だいひょうてき芸能げいのうは、歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりである。舞踊ぶようから出発しゅっぱつした歌舞伎かぶきは、人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり台本だいほん演出えんしゅつれて、内容ないよう様式ようしき豊富ほうふになり、多彩たさい発展はってんげた。そして歌舞伎かぶき平行へいこうして発達はったつした人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりは、すじ構成こうせい歌舞伎かぶきちかいため、同一どういつ台本だいほん両者りょうしゃもちいられることもおおかった。近世きんせいでは、歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり民衆演劇みんしゅうえんげきとして、隆盛りゅうせいきわめた。ちなみに、日本にほん芸能げいのうのうち、歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり宮廷時代きゅうていじだい能楽のうがくは、日本にほんにおける「三大演劇さんだいえんげき」とばれて、日本にほんもっと代表的だいひょうてき芸能げいのうになっている。

歌舞伎かぶき

歌舞伎かぶき語源ごげんは、新奇異様しんきいよう行動こうどう意味いみする「かぶきもの」といった言葉ことばからたものである。1600ねんごろ、出雲大社いずもたいしゃ巫女みこ阿国おくには、出雲大社いずもたいしゃ修復しゅうふくのための勧進かんじんとして女性じょせい中心ちゅうしん歌舞団かぶだん組織そしきして、念仏踊ねんぶつおどりをおどった。人気にんきはくした阿国おくにはそののち京都きょうと巡行じゅんこうし、評判ひょうばんとなった。これが歌舞伎かぶきはじまりとわれている。阿国おくに念仏踊ねんぶつおどりは次第しだい風俗化ふうぞくかした。1603ねんに、当時とうじあたらしい娯楽場ごらくじょうだった茶屋ちゃや風呂屋ふろやなどで、遊女ゆうじょ歌舞伎かぶきえんじるようになった。当時とうじ民衆みんしゅうは、それを「遊女歌舞伎ゆうじょかぶき」とぶようになった。遊女歌舞伎ゆうじょかぶき歌舞伎かぶき隆盛りゅうせいまねいたが、しかし女性じょせい演出えんしゅつ風俗ふうぞくみだすという理由りゆうで、1629(寛永かんえい6)ねん幕府ばくふ禁止きんしされた。

遊女歌舞伎ゆうじょかぶき禁止きんしされると、舞台ぶたいでは男性だんせい女性じょせいやくつようになり、若者わかもの女性じょせいやくえんじるようになった。若者わかものとは前髪まえがみをつけた十五歳前じゅうごさいまえ少年しょうねんのことで、「若衆歌舞伎わかしゅうかぶき」は未成年みせいねん美少年びしょうねんたちによって編成へんせいされた。しかし、かれらも女装じょそうしたりして、男色だんしょくさながらの売春的ばいしゅんてき方向ほうこうすすむようになった。そのために、幕府ばくふはついに風俗素乱ふうぞくそらん理由りゆうに、1652(慶安けいあん5)ねん若衆歌舞伎わかしゅうかぶき禁止きんしした。1654(承応じょうおう3)ねん歌舞伎かぶき出演者しゅつえんしゃ前髪まえがみって月代さかやきをそった成年男子せいねんだんしにすることとなった。世間せけんではそれを「野郎前髪歌舞伎やろうまえがみかぶき」とんだ。こうして歌舞伎かぶき成年男子せいねんだんしえんじるようになってから、技芸ぎげい脚本きゃくほん主体しゅたい野郎歌舞

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として興行こうぎょうされた。そののち歌舞伎かぶき演技えんぎ工夫くふうすすみ、演劇えんげきへのみちあゆむ。

歌舞伎かぶき題材だいざいには、力強ちからづよ様式的ようしきてきな「荒事あらごと」と、合理的ごうりてき写実的しゃじつてき演技えんぎの「和事わごと」がある。和事わごととは恋愛物れんあいもの荒事あらごととは大立おおたちまわりのことで、それぞれの役者やくしゃ得意とくいとした芸風げいふうのことだ。歌舞伎かぶきでは、子供こどもやくべつとして、すべてのやく男性だんせいえんじる。男性だんせいえんじる女性じょせいやく女形おやまという。元禄時代げんろくじだいに、上方かみがた女形おやま得意とくいとした芳沢よしざわあやめ、恋愛劇れんあいげき得意とくいとした坂田藤十郎さかたとうじゅうろう江戸えど勇壮ゆうそう演技えんぎ好評こうひょう市川団十郎いちかわだんじゅうろうなどの名優めいゆうた。歌舞伎かぶき名作者めいさくしゃ名優めいゆう輩出はいしゅつにより、本格的ほんかくてき演劇えんげきとして急速きゅうそく成長せいちょうした。

歌舞伎かぶき女優じょゆう使つかわず、男性だんせいばかりでえんじられるため、女形おやま芸術げいじゅつじょう女性じょせい表現ひょうげんする。女形おやま使用しようにより、独自どくじ化粧法けしょうほう派手はで衣装いしょうなどが歌舞伎かぶき特色とくしょくとなっている。また、歌舞伎かぶき特有とくゆう舞台構造ぶたいこうぞうとして「花道はなみち」がある。花道はなみち舞台ぶたい延長えんちょうでもあり、客席きゃくせきなかとおっている。花道はなみち役者やくしゃとおることによって、役者やくしゃ身近みぢか存在そんざいかんじられるようになっている。歌舞伎かぶき舞台ぶたいに、場面転換ばめんてんかんするまわ舞台ぶたいもあり、これを観客かんきゃくく。このような様式性ようしきせいてん舞台構造ぶたいこうぞうは、歌舞伎かぶき芸術げいじゅつにまでたかめ、一種いっしゅ舞台芸術ぶたいげいじゅつとなっている。

元禄時代げんろくじだいに、江戸えど大坂おおさか京都きょうとなどの都市としには、常設じょうせつ芝居小屋しばいごやかれた。歌舞伎かぶき民衆みんしゅう演劇えんげきとして発達はったつして、三都さんと中心ちゅうしん庶民しょみん娯楽ごらくとなった。歌舞伎かぶき名作めいさくとして、『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』、『勧進帳かんじんちょう』、『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』、『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』などがある。近松門左衛門ちかまつもんざえもんの『曾根崎心中そねざきしんじゅう』、『心中天しんじゅうてん綱島あみじま』などの心中物しんじゅうものは、歌舞伎かぶき舞台ぶたいでもよく上演じょうえんされている。これらの作品さくひんは、当時とうじから今日きょうまで毎年まいとしのように上演じょうえんされている。

人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり

人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり歌舞伎かぶきならんで、近世きんせい代表的だいひょうてき民衆芸能みんしゅうげいのうである。人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり浄瑠璃じょうるり三味線しゃみせん人形にんぎょう一体いったいとなって展開てんかいされる人形芝居にんぎょうしばいである。浄瑠璃じょうるりはもともと琵琶法師びわほうしによって扇拍子おうぎびょうし、琵

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琶の伴奏ばんそうかたられていたが、江戸時代えどじだいはいると三味線しゃみせん伴奏ばんそうあやつ人形にんぎょうむすびつき、人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりへと発展はってんしていった。そして竹本義太夫たけもとぎだゆう出現しゅつげんによって、人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり文学的ぶんがくてきにも音楽的おんがくてきにも飛躍的ひやくてき発達はったつげた。人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり江戸時代えどじだい前期ぜんきから中期ちゅうきまで興隆こうりゅうして、当時とうじ大坂おおさか文楽座ぶんらくざにちなんで、文楽ぶんらくともいう。

1684(貞享じょうきょう元)ねん竹本義太夫たけもとぎだゆう大坂おおさか竹本座たけもとざつくり、近松門左衛門ちかまつもんざえもんつくった『世継曾我よつぎそが』という浄瑠璃じょうるり上演じょうえんした。これ以後いご義太夫ぎだゆう近松ちかまつとの提携ていけいによって、次々つぎつぎあたらしい作品さくひん上演じょうえんされて、人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり人気にんきげていった。1715(正徳しょうとく5)ねん近松ちかまつは、明国みんこく再興さいこうねがって日本にほんんでいた鄭芝龍ていしりゅうとその鄭成功ていせいこう清朝しんちょうたたかったことを題材だいざいとする『国性爺合戦こくせんやかっせん』をいた。この作品さくひん浄瑠璃じょうるり舞台ぶたい流行りゅうこうした。

言葉の説明 「仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら

仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』は元禄時代げんろくじだい赤穂事件あこうじけん題材だいざいにしている。1701(元禄げんろく14)ねん江戸城えどじょう内で赤穂藩あこうはん浅野内匠頭あさのたくみのかみ長矩ながのり儀式典礼ぎしきてんれい役をめぐるトラブルから吉良上野介きらこうずけのすけりつけた。浅野あさの即日そくじつ切腹せっぷくめいじられ、浅野あさの領地りょうち幕府ばくふ没収ぼっしゅうされた。1703(元禄げんろく15)ねん浅野家あさのけ家臣かしん大石内蔵助良雄おおいしくらのすけよしお首領しゅりょうとする47にんは、主君しゅくんうらみをらすために吉良邸きらていって目的もくてきたした。そののち赤穂浪士あこうろうし幕府ばくふ命令めいれいにより切腹せっぷくしょせられた。

1706(宝永ほうえい3)ねん近松門左衛門ちかまつもんざえもんがこの事件じけんをもとにして『基盤太平記ごばんたいへいき』をき、大坂おおさか竹本座たけもとざ上演じょうえんされた。『基盤太平記ごばんたいへいき』はてから、かなりの好評こうひょうはくし、のちに『忠臣蔵ちゅうしんぐら』のもとになった。1748(寛延かんえん元)ねん近松ちかまつ師事しじした竹田出雲たけだいずもはそれまでのいろいろな『忠

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臣蔵ちゅうしんぐら』の手本てほんをかきあつめ、『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』として集成しゅうせいした。それ以来いらい、『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』は人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり歌舞伎かぶき脚本きゃくほんとして上演じょうえんされている。今日きょうでもこの劇目げきもく歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりなかもっと人気にんきのある演目えんもくとして定着ていちゃくしている。

第四節 元禄時代げんろくじだい芸術げいじゅつ

(一)美術びじゅつ工芸こうげい

元禄時代げんろくじだいに、絵画かいが陶器とうき彫刻ちょうこくなどの美術びじゅつ工芸こうげいでは、すばらしい表現ひょうげんあらわわれた。絵画かいがでは、当時とうじ民衆みんしゅう風俗ふうぞくうつした浮世絵うきよえ流行りゅうこうした。浮世絵うきよえ創始者そうしじゃ菱川師宣ひしかわもろのぶ(1618-94)とわれている。かれ浮世絵うきよえ版画はんがはじめて、その代表作だいひょうさく肉筆にくひつ美人画びじんがの「見返みかえ美人図びじんず」である。師宣もろのぶ登場とうじょうによって、印刷いんさつされたその版画はんがは、やす値段ねだんれられることもあって、おおくの人々ひとびと愛好あいこうされた。かつて武士ぶし貴族きぞくのためにえがかれた絵画かいがながめるたのしみが、このころにはすでに庶民しょみんのものになったのである。

工芸こうげいでは、尾形光琳おがたこうりん(1658-1716)が「燕子花図屛風かきつばたずびょうぶ」、「紅白梅図屛風こうはくばいずびょうぶ」、「八橋蒔絵硯箱やつはしまきえすずりばこ」などをき、京蒔絵きょうまきえ発展はってんさせた。光琳こうりんおとうと尾形乾山おがたけんざん(1663-1743)は色絵陶器いろえとうき感化かんかけ、楽焼らくやき本焼ほんやき装飾的そうしょくてき陶器とうきのこした。また、京都きょうと野々村仁清ののむらにんせい陶器とうき上絵付法うわえつけほうほどこし、京焼きょうやき色絵陶器いろえとうき完成かんせいさせた。その代表作だいひょうさくに「色絵藤花文茶壺いろえとうかもんちゃつぼ」、「色絵吉野山図茶壺いろえよしのやまずちゃつぼ」がある。そして染物そめものでは、京都きょうと染物絵師そめものえし宮崎友禅みやざきゆうぜん糊付のりづけの技法ぎほう改良かいりょうして、友禅染ゆうぜんぞめ創始そうしした。はなやかな模様もようめた友禅染ゆうぜんぞめは、京都きょうとだけではなく北陸ほくりく金沢かなざわでも流行りゅうこうした。京都きょうとのものを京友禅きょうゆうぜんといい、金沢かなざわのものを加賀友禅かがゆうぜんという。

(二)建築けんちく彫刻ちょうこく

元禄時代げんろくじだい建築けんちくでは、土蔵造どぞうづくりという様式ようしきられた。土蔵造どぞうづくりまわりのかべつちった構造こうぞうで、倉庫建築そうここうちく使つかわれていた。そして家屋建築かおくけんちく

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として、瓦屋根かわらやね家屋かおく一段いちだん普及ふきゅうしていた。当時とうじ美濃みの出身しゅっしん僧侶そうりょ円空えんくうは、東日本ひがしにほん遍歴へんれきして、各地かくち民衆みんしゅう教化きょうかしながら鉈彫なたほり仏像ぶつぞうつくった。代表作だいひょうさく両面宿儺像りょうめんすくねぞう護法神像ごほうしんぞう聖観音像しょうかんのんぞうなどがある。鉈彫なたほりとは丸木まるき原材げんざいり、そのかした荒削あらけずりの彫法ちょうほうである。このような彫法ちょうほうは、それまでの仏教ぶっきょう芸術げいじゅつ作品さくひんにはられない独特どくとく精神性せいしんせい芸術性げいじゅつせいっている。

以上いじょうのように、江戸中期えどちゅうき元禄文化げんろくぶんかは、文芸ぶんげい芸能げいのうから美術びじゅつ工芸こうげいなどまで、町人ちょうにんなかからまれたものがおおく、かなりおおくの町人ちょうにんがそれをになった。近世初期きんせいしょき文化ぶんか武士ぶし世界せかい中心ちゅうしんに、優雅ゆうが公家文化くげぶんかだったのにたいして、元禄げんろく文化ぶんか庶民的しょみんてき繁栄はんえいつよ反映はんえいして、庶民的しょみんてき色彩しきさいつよ文化ぶんかになっているのである。

(文責:徐翔生)

【確認してみよう】

一、つぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

  1. 元禄文化げんろくぶんか関係かんけいしないひと一人ひとりえらべ。( )
    a. 西山宗因にしやまそういん b. 井原西鶴いはらさいかく c. 松尾芭蕉まつおばしょう
  2. 元禄時代げんろくじだい芸能げいのうとして、不適切ふてきせつなものをひとえらべ。( )
    a. 歌舞伎かぶき b. 人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり c. 能劇のうげき
  3. 浮世草子うきよぞうし代表的だいひょうてき作家さっかで、おおくの好色物こうしょくもの町人物ちょうにんものあらわしたのはだれか。( )
    a. 井原西鶴いはらさいかく b. 松尾芭蕉まつおばしょう c. 近松門左衛門ちかまつもんざえもん
  4. このなかで、松尾芭蕉まつおばしょう作品さくひんはどれか。( )
    a.『好色一代男こうしょくいちだいおとこ』 b.『奥の細道おくのほそみち』 c.『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら
  5. 元禄文学げんろくぶんがく代表的だいひょうてき人物じんぶつ近松門左衛門ちかまつもんざえもん作品さくひんはどれか。( )
    a.『日本永代蔵にほんえいたいぐら』 b.『曾根崎心中そねざきしんじゅう』 c.『太平記たいへいき

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二、つぎの( )のなか適当てきとう語句ごくれなさい。

  1. 歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり脚本きゃくほんき、『曾根崎心中そねざきしんじゅう』をあらわしたのは( )である。
  2. 元禄時代げんろくじだいに、さび・しおり・かるみでしめされる俳風はいふう確立かくりつした俳人はいじんは( )である。
  3. 出雲大社いずもたいしゃ巫女みこわれて、歌舞伎かぶき基礎きそつくったのは( )である。
  4. あやつ人形にんぎょう伴奏ばんそう三味線しゃみせんもちいた芝居しばいは( )という。
  5. 元禄時代げんろくじだい赤穂事件あこうじけん題材だいざいにした人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり歌舞伎かぶき代表作だいひょうさくは( )である。

三、つぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

  1. 元禄文化げんろくぶんかとはなにか。
  2. 近世きんせい芸能げいのうについてべよ。
  3. 歌舞伎かぶきについてべよ。
  4. 浄瑠璃じょうるりについてべよ。
  5. 武士道ぶしどうについてべよ。

参考文献

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